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無防備な関係

by セイヤーめぐみ



先日、地上に完全な人がイエス以外にいたということにふと気づきました。それは、アダムとエバです。彼らが罪を犯す前、彼らは完全な人間でした。神はアダムとエバをご自身に似せて造り、神が非常に良いとされた存在でした。


今日は、その中の特徴的なこととして描かれている、彼らが「裸だった」ということに焦点を当ててみたいと思います。これはあまり取り上げられるトピックではないかもしれませんが、聖書では彼らが裸であったことが言及されており、どのように裸で居られなくなったのかがはっきりと書かれています。さっと通り過ぎてしまいがちですが、これを深く考えてみましょう。






裸で造られた人

アダムとエバが罪を犯して以降、聖書の中で裸は恥とセットで描かれることが非常に多くなりました。しかし、天地創造の時に、神が「さあ、人を我々のかたちとして、我々の似姿に造ろう(創世記1:26)」と言われて造った人は、裸の状態でした。彼らは洋服を着ておらず、裸で過ごしていたというのです!


「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」創世記2:25


考えてみてください。アダムとエバは裸でした。しかし、2人は完全に無防備な裸の状態であっても全く問題なく、そのままの自分でいられました。そこに恥はなく、完全な信頼で繋がっていました。お互いのことを指ささず、受け入れあって、喜んでいたのです。飾る必要もない、何を見られても恥ずかしくない、ただ自分のユニークさと自分が自分であることを楽しんでいたのです。


また、神の前に裸で出ても全く問題がありませんでした。これは旧約の人々にとっては衝撃的な事実です。旧約聖書を見てみると、祭司たちは裸で主の臨在の場所に入っていくことはできませんでした。主は裸を覆うための衣を用意するように命じています。


「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」出エジプト記28:41~43


罪が世界に入って以降、神と人との間に断絶が生まれました。しかしそれは、神が願われた状態では決してありません。


神が世界を造られた時、神は人を裸の状態で造り、裸の状態で神と語り、ありのままの自分でこの世界を治めることを良しとされました。神の前で、本来そうあるべき者として造られたのです。




無防備な状態の中にあるもの

では、人が裸であるというこの無防備な状態の中には、一体何があったのでしょう?



誉れ

これは、恥の対極にあるもの、恥の反対語です。恥の反対語を調べるとこの「誉れ」が出てくるのです!皆さん、知っていましたか?神が造られた人の姿は、最高の誉れでした。なぜでしょう?それは、神がご自身のかたちに似せて、神ご自身の手で造られたからです。人の姿は、本来最高の誉れなのです!そこには全く恥がありません。恥ずかしいと思える部分は何もありません。まさに神が緻密に計画し、同意して造った最高傑作なのです。最高傑作を造ったのに恥じる制作者がどこにいるでしょう?また、最高傑作に造られた自分を恥じる必要がどこにあるでしょう?


聖書は言っています。

「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」創世記1:31


裸の状態であったのに、それは恥ではなく、非常に良いもので、完全な誉れでした。



完全な受容

裸でいられたということは、そこには全き受容があり、自分が裸であることに責められることが何もなかったということです。何も覆う必要がなく、自分を繕う必要も守る必要もなく、人はここで完全なアイデンティティを受け取ることができました。自分がどれほど素晴らしい存在なのか、どれほど神と人に受け入れられているのか、そのままの自分でいられる安心感、喜びと充足を感じていたでしょう。なんて素晴らしい場所でしょう!まさにこれこそ現代の人が求めているものではないでしょうか?



親密さ

自分の全てを見せるということは、そこに親密さがあるということです。完全な信頼関係がそこにあります。もし自分の全てを見せて、それをからかわれたり、馬鹿にされたらどうでしょう?もうそこは安全な場所ではなくなり、全てを覆うことを選んでしまうでしょう。しかし、自分の全てを受け入れて、大事にしてくれる相手とは、必ず親密さが生まれます。


神と人との間には、なんの隔たりもない親密さがありました。お互いの思いをそのまま語り、受け入れあい、話し合い、共に歩んでいました。


また、人と人の間にも親密さがありました。これは身体的に裸であったことだけでなく、自分の心も裸であったことを言っています。そのままの自分を受け入れ合い、喜び、祝い、楽しみ、何もお互いを妨げることがないとは、どれほど素晴らしいことでしょう。この親密さは、人の完全な一致を作ります。完全に一つとなることは、親密さの究極的な状態です。






これを今の私たちに置き換えてみましょう。


もし、自分が人前で裸になったらと考えた時、どういう気持ちが最初に来ますか?今、一瞬目を閉じて考えてみてください。

・・・もちろん、自分の体を見られるのは恥ずかしいと誰もが思うでしょう!でも、何が恥ずかしいと感じますか?全てを見られることでしょうか?人と比べられることでしょうか?自分に欠陥があることでしょうか?裁かれることでしょうか?


まさに、皆さんが今感じたことを、罪を犯したアダムとエバは感じました。


「彼は言った。『私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。』」創世記3:10


彼らは罪を犯したことによって、これまでの完全に無防備で裸でいることができた状態を壊しました。完全に崩壊させました。これまで誉れだったものが恐れとなり、恥となりました。完全に受け入れられ、神と顔を合わせていた状態から、顔を背けるようになりました。神との親密さが失われ、もう裸の状態では出ていけなくなってしまいました。なんとも無惨な状態に陥ってしまったのです。大変なものを失ってしまったのです。本来の自分の誉れある姿は完全に失われてしまいました。


アダムとエバは、神の前に出せない自分を見つけます。神を裏切ってしまい、言い訳を探している自分。自分のしたことに責任は持たず、自分はただの被害者だとアピールしなければいけない自分。神の言ったことを守れなかった弱い自分。とてつもないことをしてしまった後悔と罪責感。


この罪が入って以降、人は罪を知り、恥を知り、恐れを知り、当初の状態からかけ離れたものとなってしまいました。本来、知らなくてよかったものを知り、神から隠れ、心を偽り、お互い指を刺す関係が始まってしまったのです。




神の贖い

きっと神もとても残念だったでしょう。本来の人との関係が失われて、心が張り裂ける思いだったでしょう。しかし、そこには神からの助けがありました。


創世記3:21を見ると、神は動物の皮で人の衣を造り、2人に着せてあげました。これはイエスの贖いを示しています。


罪を犯してしまった人に対して、神はただ失望して、滅ぼすのではなく、「あなたが失敗してしまっても、わたしには備えがあるよ。あなたの恥はわたしが覆うから、大丈夫だよ。」と言っているようです。これは、全く神のせいではない問題です。神が犠牲を払う必要など、全くないことです。全ては人の無責任であり、反逆であり、人が自ら選んだ罪のせいです。しかし、神は人を心から愛し、その心を通わす無防備な関係を愛し、深い憐れみを持っていたがゆえに、人を贖いました。


神は、ひとり子であるイエスを送り、私たちの罪を着せ、私たちと神との間の壁を壊しました(エペソ2:13-16)。ひとり子を送るということが、どれだけの犠牲かわかりますか?


子供を持つ親なら理解がしやすいかもしれません。もし私が、自分の子供を犯罪者のために死なせなさいと言われたら、絶対にいやです!自分の子供が死ぬことで、犯罪者が赦されて自由になる。どうでしょう?皆さんも絶対に嫌だと思います!もしかすると、難しいとは思いますが、自分の命を差し出すならまだ考えられるかもしれません。でも、私が私の愛する子供達を、誰か他の人のために犠牲にするとなると、そんなことはとてもじゃないですができません。子供たちを愛しているし、決して苦しませたくはないからです。


しかし、神は自分の命ではなく、ひとり子の命を差し出しました。反逆者、罪人である私たちのためにです。しかも、私たちが神に敵対する者であった時にです。なんと大きな犠牲を払って、神は私たちを贖ったのでしょうか。



そこまでして、神が買い戻したかったものがあります。それは、神が世界を造った時に持っていた、人との関係です。神がご自身に似せて造られた関係、神がご自身のように造られたかたちは、全く無防備で、誉れ、受容、親密さがあった裸の関係です。


お互い何を言っても大丈夫、全く無防備になっても大丈夫、そんな関係がこの世界に一体どれくらいあるでしょう?

その代わりに、人は隠すことがとても上手になりました。みんな必死に自分の恥ずかしい部分を隠します。誰にも知られないように、失望されないように、痛みや弱さを見せません。恥ずかしい罪はなおさらです。お互いの罪が、間違った方向へ人を成長させてきてしまったのです。


その場所から、私たちは本来の姿に戻る必要があります。人前で裸になれと言っているのではありません(絶対にしないでくださいね!)。


神の前で、あなたはどういう姿でいますか?

全てを広げて、神に見せていますか?心の中の葛藤を見せていますか?

毎日の失敗や成功、罪や醜さ、喜びや悲しみを、何か違うもので覆い隠さずに、神に見せていますか?それは完全に、自分が裸になって見せたものでしょうか?


神は私たちとの親密さを求めています。高い代償を払った代わりに、求めています。渇望しています。神は、あなたと近い関係を持ち、話し合い、パートナーとして、友人として、親子として、共に歩みたいと心から願っています。


神との親密さの中で、私たちは自分の正しいアイデンティティを見つけます。愛されている自分の姿を発見します。神との親密さの中には、いのちがあります。神が男女の親密さを通して、新しい命が生まれることを計画したのもすごい奥義だと思いませんか?人と人の親密さの中にも、命が流れていくのです。




今日、心開いて、主に聞いてみましょう。主は、私たちが裸の状態であっても、完全に受け入れ、喜んでくださる方です。欠陥があっても大丈夫。弱さや罪があっても大丈夫。どんなにひどい自分でも、どんなに醜い自分でも、主はあなたの心が砕かれ、自分を完全に見せることを喜びます。それを待っています。あなたと真に親密な関係を築きたいからです。


心の中に、まだ隠れている部分がないか、主の前に持っていくべきものがないか、聖霊に探っていただきましょう。人の心は何よりもねじ曲がっていると聖書は言っています(エレミヤ書17:9-10)。私たちには、自分でも気づかない心の隠れ部屋があります。ですから、私たちの心の奥深くまでご存じの方に探っていただき、神との関係をもう一歩進めてみましょう。





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