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執筆者の写真CTF Japan

神と歩むとは?

by セイヤー めぐみ



神と一緒に歩むとは、いったいどういうことなんでしょう?このことは教会でもよく話されますし、個人的にも今年は神が共にいるということをもっと信じる必要があると感じています。はたして、その実際はいったいどのようなものなのでしょうか?



幕屋・神殿に住まわれる神

神が人と歩んできた歴史を見ると、おもしろいことがわかります。まず旧約の時代には、神は特定の場所に臨在を置き、その場所から人に語られました。



わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト記 25章22節)


モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。(民数記 7章89節)



神は、幕屋(または神殿)の中の至聖所という場所で人と会い、人に語りました。契約の箱の上にある2体のケルビム像の間から神は語り、人はその声を聞いたのです。しかし、その場所は誰でも入れるような場所ではなく、年に一度、大祭司だけが入ることを許されました。そしてその大祭司も、契約の箱が置かれた至聖所に入るためにいくつもの過程を経て、必ず罪のための血を携えて入っていかなければなりませんでした(ヘブル9:7)。


つまり、神は気軽に会いにいけるような存在ではなかったのです。大祭司以外のレビ人やイスラエルの民、その他の国民にとっては、神の声を聞いたり、臨在に触れることはできませんでした。


しかし、これは本来神が望んでいた人との関係ではなかったのです。そこでイエスが遣わされました。




人の間に住まわれる神


ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書 1章14節)


そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。(マタイの福音書 4章13節)



これらのみことばを見ると、神が人々の間に住まわれたことがわかります。触れることも見ることもかなわなかった神が、驚くことに人となって来られ、人々は神の姿を目撃しました。触れることを許され、見ることを許され、その声を誰でも聞くことを許されたのです!これはきっとイスラエルの民にとっては衝撃的だったでしょう。遠く離れ、近づけなかった神が、今度は人々の間に住まわれたからです。


イエスは神がどのような考えを持ち、神の力がどのように働くかを実際に見せました。へりくだって人の姿をとり、人々にわかるように人の言語を使って、神を明らかにしたのです。多くの人々がイエスに押し寄せ、喜んでその話に耳を傾けました。「今日はあの場所にいるらしいぞ!」とか、「この町にイエスが来たから行ってみよう!」という話があちこちで聞かれたでしょう。イエスは人々の間に住まわれ、その姿を見せ、声を聞かせたのです。誰でもイエスがいる場所に行くなら、神に会うことができるようになりました。ところが、神の計画はここで終わらなかったのです。





人の中に住まわれる神

旧約聖書を見ると、ソロモンは神殿を作ったとき、その完成を見ながら神に祈りました。その中でこう言っています。


それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌 第二 6章18節)


この世界を造られた神が、はたしてこの地上で、しかもこの小さな神殿に住むのだろうかという疑問を語ります。そこには矛盾があるように思われたかもしれません。しかし、ソロモンはへりくだって神に祈り、神もソロモンの祈りを聞き入れました。


今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。(歴代誌 第二 7章16節)




ところが新約時代に入り、イエスが十字架で私たちの罪をあがなったあと、神はさらに良い計画を実現したのです。



あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(コリント人への手紙 第一 3章16~17節)



神は、神殿ではなく、人々の間でもなく、今度は人の中に住むことにされたのです!これはいったいどういうことなんでしょう?天地を造られた神が被造物である人の中に住むなんて、まったく想像もつかなかったことです!神は人の考えをはるかに超えることを行いました。神は私たちのうちに住所を定めたのです。


神は人を愛しています。遠く離れた関係ではなく、もっと近く、もう離れることができないほどの距離でずっと一緒にいたいと願っています。愛の関係はいつも、きっとそのような思いにさせるのだと思います。


この「神が私たちの中に住まわれる」という事実は、私たちに対する神のラブレターのようです。神の「わたしはあなたが欲しい」という声が、この事実からも聞こえてきます。「あなた」という人と、「わたし」という神が、人格と人格を持って出会い、語り、一緒に生きることを神は願われたのです。神は神、人は人、というように線を引き、まったく交わらないものとしてではなく、いつも近く、いつも一緒に、いつも一つとなって、同じ家に住みたいと神は願っています。


それがあなたの体なのです。あなたの体は、この地上でのあなたの住所であり、神も一緒に住む家です。幕屋でも神殿でもなく、それらに優る生きた聖なる宮があなたなのです。そこで神と一緒に生活します。私たちが生きる目の前の瞬間を神と分かち合い、神に相談し、神と一緒に行います。自分一人の考えで突っ走るのではなく、あるいは行き止まってから神に問題を持っていくのではなく、すべての瞬間に神が一緒にいることを見つけ、神とつながり、神の心を一緒に行うことなのです。


ヘブル人への手紙12章22節では、「全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」とあります。信仰は、私たちと神をつなぐ鍵です。「神はここにいる」「神は私に答えてくださる」「神は私に語ってくださる」「神は私を喜んでくださる」と信じて神に近づくことで、神はそれに応え、神と共に歩むことが実現します。信仰こそ、私たちが神を喜ばせ、関係を近づけることができるものなのです(ヘブル11:6)。


神があなたを愛し、一緒に生きたいというメッセージは明らかです。そこにはなんの疑いの余地もありません。年に一度、大祭司しか会えないような関係ではなく、遠くの町まで旅しなければ会えないような関係でもなく、神はあなたの中に住む場所を定め、いつでも会えるようにすべての準備を完了しました。そのためにイエスを送り、隔ての壁を壊し、関係を妨げるものをなくしたのです。その代価は高くつくものでしたが、神はそれを惜しみませんでした。


ですから今日、信じて神に一歩近づきましょう。神が応えてくださることを期待して話しましょう。自分が神の喜びであることを信じて感謝しましょう。神が教えてくださると信じて質問しましょう。神はあなたにまだまだ良いものを用意していて、あなたに手渡す準備ができています。



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