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油注ぎを尊重し、解き放つ

更新日:2023年4月24日

by ジョン・アーノット




賜物を解き放つために敬うこと

最近、第2列王記5章を読んでいました。これは、エリシャが癒したらい病人、ナアマンの物語です。私は再びその物語に魅了され、気づくと何度も何度も読んでいました。その中で、捕らえられたイスラエルの奴隷の少女の態度に、私は感銘を受けました。


彼女は、幼い頃に自分の家や家族から引き離されたにもかかわらず、明るく親切でした。主人がらい病にかかっていると聞いたとき、彼女は主人を助けるために、貴重な情報を提供しました。 「私の主人がサマリヤの預言者に会えば、きっとらい病を癒してくれるでしょう。」私はこれを熟考し、「たとえ悲惨な状況に陥ったとしても、クリスチャンがもっと前向きでいのちを与えることができれば」と考えました。




「彼は自分自身を謙虚にしなければなりませんでした。」


面白いですね。囚われの奴隷の少女が、どのようにしてエリシャの油注ぎを知ったのでしょうか?神の力にアクセスするために、ナアマンが奴隷の少女を信じて謙虚になり、彼が戦いで打ち負かしていた国に行くのは皮肉なことだと思いませんか?


ナアマンが来るという知らせを受けたイスラエルの王は、最悪の事態を恐れました。幸いなことに、エリシャはこの出来事を聞き、王に知らせました。 「ナアマンをわたしのところに来させてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」


ナアマンはお金の入った袋を持ってサマリヤに到着しましたが、預言者はナアマンが支払いたくない代価を要求しました。ナアマンは謙虚にならなければなりませんでした。ナアマンのプライドが高すぎたため、癒しを受け取ることに失敗しかけたのです。


悪名高い将軍に会いに来る代わりに、エリシャはただ使者を送って、すべきことを指示しました。それにナアマンは激怒しました。 「私が川で体を洗う必要があるなら、自分の国にはもっときれいな川があります!」


ナアマンのしもべたちは彼が癒されることを望み、預言者の言葉に従うように懇願しました。 「預言者があなたに何か偉大なことをするように言ったなら、あなたはそれを実行したことでしょう。彼はあなたに『洗ってきれいになりなさい』と簡単なことを言っただけです。」


ナアマンはさらに謙虚になり、ヨルダン川に行きました。彼は堂々とした衣服を脱いで、自分のらい病をすべての友人や兵士にさらしたと思います。五回、六回、七回、彼は体を洗いました。そして、ナアマンの体は幼子の体のようにきよくなりました。ナアマンは、エリシャの使者を通じて語られた神の言葉を尊重したからです。彼は逃しそうになりましたが、そうなりませんでした。ナアマンは体を洗って、きれいになりました。彼は謙虚に、そして感謝してエリシャの元へ行きました。しかし、エリシャは彼のお金を一切受け取りませんでした。ナアマンは主を信じる者となり、喜んで帰っていきました。きっと力強い証人となったことでしょう!




「誰かをよく知れば知るほど、彼らの内に宿る聖霊の油注ぎを軽視しないように注意する必要があります。」


私の考えは、ルカの福音書4章の記述に行きました。そこでは、イエスは安息日の慣習に従って故郷のナザレに行き、会堂に入られました(ちなみに、それはイエスもなされたことで、とても良い習慣です)。彼は立ち上がり、イザヤ書61:1-2を読みました。 「主の御霊が私の上にあります。主は私に油を注がれ、釈放を告げ、慰め、自由を宣べ伝え、抑圧された人々を解放し、主の恵みの年を宣言するために...」。


すべての目がイエスに注がれているとき、イエスは「今日、このみことばは成就しました」と告げました。会衆は驚き、釘付けになりましたが、その後トラブルが発生しました。イエスを前から知っていた人々は、「これはヨセフの息子ではないか」と言い始めたのです。


つまり、「ちょっと待って。私たちはこの人を知っています。彼はヨセフの子です。彼は自分を一体誰だと思っているんですか?」ということです。その時イエスは、「預言者は、自分の国、自分の親族、自分の家では尊敬されません」と言われました。それからルカ4:27で、イエスは彼らにナアマンの話を思い出させました。



必要な油注ぎはどこにありますか?

深く読むと、イエスは「なぜ神の民はいつも神の祝福を逃しているのですか?」と尋ねているのです。なぜ異邦人は、イエスの国の民よりも先に油注ぎに届いたのでしょうか?「親しみは軽蔑を生む」という古いことわざがあります。なぜ知らない人への油注ぎは認識し、知っている人への油注ぎは簡単に無視するのか、と私は疑問に思います。


私も教会でそれに気づきました。そして、おそらく私自身がそれを犯したのです。私たちが最初にクリスチャンに会うとき、彼らの不完全さを見る前に、聖霊の油注ぎと彼らについて賞賛すべき資質を見るように思います。しかし、しばらくすると、彼らの欠陥が見え始めます。彼らが私たちを怒らせると、それはさらに悪くなります。彼らの人生に矛盾や問題があるのに、神は彼らを用いることなどできるのだろうか、と思い始めます。


ジョージ・アルフレッドという友人がいます。私たちは一緒に高校に行きました。彼は現在、トロントにある私たちの教会に通っています。時々彼は、「君が牧師になったなんていまだに信じられない!」と大笑いします。


なぜでしょう?なぜなら、彼は「肉」の私をまず知っていて、それから信じたので、「肉」に見えるのです!彼は私の最悪の時を知っていたので、いわば今の「最高の状態」の私を見るのは面白いのです。ジョージは問題ないように見えますが、「肉の」誰かを知っていることは、「御霊の後の」人を見る妨げになる可能性があります。


誰かをよく知れば知るほど、彼らの中に住む聖霊の油注ぎを軽視しないように注意する必要があります。私たちは、「預言者」が遠くから来たときのように、近くの人々の油注ぎを尊重する必要があります。訪問者であろうとゲストスピーカーであろうと、誰かが会衆のため来るとき、私たちはしばしば彼らが最高の状態にあるのを見ます。彼らの弱点や個人的な生活について何も知らないので、神の油注がれたしもべとして見るのは簡単です。


一方、知っている人に与えられた賜物を続けて喜ぶには、その人を軽蔑するのではなく、尊敬することが重要です。神のしもべ、特に私たちの周りで忠実に奉仕している人々に注がれている油注ぎを尊重することに同意しましょう。隣に住んでいる「預言者」を無視しないでください。


「あなたは油注がれています!」




牧師と指導者への油注ぎを尊重しましょう

クリスチャンが、自分の牧師の優れた助言とミニストリーを通り過ぎて、テレビの伝道者の助言とミニストリーを探して受け入れることがどれくらいありますか?それはなぜでしょう?なぜなら、私たちは認識において霊的に未熟であり、イエス・キリストが私たちの中に存在していること、つまり土の器に住んでいる御霊をわきまえることを学んでいないからです。


パウロは言いました。「・・・こういうわけで、主のみからだをわきまえないために、あなたの中に弱い者や病人が多いのです。・・・」神が私の周りに置かれた人の油注ぎに気づかなかったために、どれだけ癒されないことがあったのだろうか、と私は思います。

あなたは油注がれているのです!


これをさらに一歩進めましょう。



あなた自身の人生と、配偶者への油注ぎを尊重する

自分が神の油を注がれていることに気づいていますか?はい、そこのあなたです。小さなクリスチャンであっても、あなたは油注がれているのです!実際「クリスチャン」という言葉は、「小さな油注がれた者」または「小さなキリスト者」を意味します。あなたも「土の器」にキリストの宝を持っています。


ナアマンがエリシャの油注ぎを認識したとき、エリシャは神が奇跡を起こそうとされているのを知っていたと思います。ナアマンがエリシャの油注ぎに気づいたとき、それはエリシャの内側の油注ぎを解放しました。エリシャはイスラエルの王に、「ナアマンを私のところに遣わしてください。そうすれば、彼はこの地に預言者がいることを知るでしょう」と言いました。




「尊重というプレゼントを与え合って、お互いの力を解放しましょう。」


お互いに、イエス・キリストから預けられたものを制限するのをやめる時ではないでしょうか?私たちの中の「預言者」に栄光を帰す決心をし、人々の油注ぎが神の賜物であることを認識すれば、私たちは神が与えようとしておられるものを受け取ります。あなたの祈りの答えが隣にあるのに、プライドで気付かないとしたらどうでしょう?


鍵となるのは、「あなたのうちにあるキリスト、栄光の希望」という福音の全体と奥義を認識することです(コロサイ人への手紙1:27)。私たちは人間的な弱さを笑い、私たちの内に住む聖霊の油注ぎに驚嘆しましょう。


尊重というプレゼントを与え合うことで、互いの力を解放していきましょう。私たちはさらに多くの奇跡を見始め、イスラエルの多くのらい病人も癒しの言葉を受けるでしょう。あなたの不信仰と尊重の欠如のために、人々の祝福を逃すことがないようにしましょう。









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